京都市内に住んでると石投げれば当たる距離に寺がいくつもある。 ほんとにひとつの通りに3軒くらいある。
唯物論者に育てられたので、付き合い以外にお参りなどしたこともないのだが、京都に引っ越してから徒歩圏内にいくつも詣でる場所があるがために、除夜の鐘と初詣に付き合わざるを得なくなった。私を付き合わせてるのは連れ合いだが、彼も別に信心があるわけでなく、まあ標準の日本人てとこなのだ。私は大晦日まで仕事のことが多いし、元日二日と年始の挨拶に出かけるので、夜は家でぬくぬくして休んでいたいのだが、断ると新年早々ご機嫌を損ねるので、近所を回るだけということでお互い妥協している。
順番に並んで鐘を撞き、賽銭を投げて手を合わせるだけ。
なんてことはないのである。ではあるが、小さな、もやっとした思いが毎度湧き起こる。
「信心ないのに体裁だけでごめんなさい」
そんなことに気が咎めるなら別に拝まなくていいし、旅先で寺社を訪れるときは実際そうしたりするのだが、初詣に並んでるのに拝まずUターンとかする度胸はないので、不本意ながら日本文化を重んじているふりをする。
自分を不自由だなあつまんないなあと感じて、軽く疲れてしまうから正月は苦手。
今年こそはもっと自由になりたいなあ。本年もよろしくお願いします。